2011年11月27日日曜日

執行官ミニ歴史(4) 強制執行の王様、動産執行



 動産執行は主要3事件のうちでも最も受理件数の多い事件で、41年間を通算して、毎年、平均163,500件もの申立てがあります。強制執行と言えば動産執行を思い浮かべる人が多いと思います。動産執行は強制執行の王様と言えます。

 受理件数は次のグラフのとおり推移しています(この件数には担保権実行である「動産競売」を含みます。)


 民事執行法が施行された1980年(昭和55年)ころから急激に増加し、バブルとともに増加を続け、ピークの1987年(昭和62年)には311,872件を記録しました。しかしながら、その後は減少しています。1998年(平成10年)ころにほぼ平均レベルまで減少して、その後もさらに減少を続け2009年(平成21年)には68,705件と41年間で最も減少しました。

 動産執行は「家財道具等の差押え」手続という方が分かりやすいかもしれません。金銭の支払い義務を認めた判決等を裁判所に持って行き「執行文」を付けてもらい、執行官室で申立てをすると、執行官が債務者の家などに行き、そこにある家財道具等の動産を差し押さえ、売却して、その代金から債務が支払われる強制執行です。

 申立ては比較的容易ですが、執行官にとっては、単独で(注1)、事件毎に違う状況下で、それぞれの債務者と対応し、差し押さえるかどうかを判断しなければならない難しい事件です。

(注1) 執行官は「独任官」と言われ、一人で執行機関を構成します。複数の人が担当するのでは、迅速に責任ある判断をすることができないからです。民事執行法は、強制執行を行う執行機関は裁判所に一元化すべきだという意見も強かったそうですが、執行官も執行機関とする二元的な構成を維持しています。

 強制執行を行う執行官は大きな権限を行使しますが、それに応じて、「正義」に従う(注2)義務と責任とを負っています。単に法規を遵守するだけではありません。しかも、その義務と責任は、「執行が終わると元には戻せない(時間は戻せない!)」という厳然たる事実(注3)の下に存在していますから、消耗する精神力は並み大抵ではありません。鍵を開ける、差し押えるなどの判断には「決断」に近い精神力を要しますが、執行官はそれ以上の精神力で「なにが正義か」を自分に問い続けます。執行が終わった後にも、問い掛けは続き、累積、拡大していきます(注4)
 執行官法施行当時から、執行官は、以上のように精神的に「消耗」する判断を行ってきたはずですが、このことは外部からはなかなか分かり難いようです。

(注2) 正義とは「同じものは同じに、違うものは違うように」処理することにほかなりませんが、その判断がときには大変困難なことがあります。

(注3) 執行官の行う強制執行は「事実行為」です。したがって、執行官の処分に不服がある人は、裁判所に執行官の処分を取り消してもらうよう「異議申立て」をすることもできますが、すべてが終わってしまった後では意味がありません。また、法律上、訴訟(いわゆる国家賠償訴訟)を起こすことができますが、これは、執行終了後に損害がある場合に、それを金銭で回復する制度です。強制執行をなかったことにする(時間を戻す)のは至難です。

(注4) 万一、自分の判断に疑いを抱くような事態に至れば、心理のメカニズム(防衛機制)によって自我を守ることができない過酷な状況に追い込まれます。中にはそのために執行官を辞める人も出てきます。・・・囲碁や将棋の棋士は終局後「検討」をして自分の敗因を徹底的に調べるそうですが、この検討はときどき凄まじいものになると聞きます。それに似ているかもしれません。執行官もまた、自己の正義判断に職を賭しています。

 動産執行については「債務者の生活に欠くことができない」動産は差押えてはならない旨の法律の規定があります(民事執行法131条参照)。差押えを行うことを職責とする執行官に対し、債務者の生存を維持するために制約を課したものです(建物明渡にはこのような規定がありません。)。この差押禁止物についての執行官の判断は、外部からは特に分かり難いようです。執行官制度の根本にかかわるところですので、少し長くなりますが、1980年(昭和55年)1030日参議院法務委員会で行われた質疑応答の一部をご紹介します。

寺田熊雄議員 その実施状況を見てみますと、かなり混乱があるように思われますのは、私が直接聞知しましたのは、百二十一条の「(差押禁止動産)」、第一号の「債務者等の生活に欠くことができない衣服、寝具、家具、台所用具、畳及び建具」、この債務者の生活に欠くことのできない家具というものの範囲、これをどの程度にするかということがいまのところは執行官の裁量に任されている。そこで、執行官によりましては、たとえばテレビであるとか電気洗たく機であるとか、あるいは冷蔵庫であるとか、こういうようなものはもう非常にポピュラーなものでわれわれの近代生活にとっては欠くことのできない家具である、そういう認定をしておる執行官もあるわけです。したがって、現実に執行官がその場所に行きまして、そういうものは差し押さえはできないと。そうすると、あと差し押さえるようなものはほとんど事実上はない。台所用具であるとか布団であるとか、あるいは衣服であるとかいうものばかりで、差し押さえ執行不能ということで帰ってくる。ところが、執行官によっては、いやいや必ずしも電気洗たく機、冷蔵庫、テレビなんかなくたって構わない、生活ができるということで、快適な市民生活というものの範囲がどの程度のものであっていいか、どの程度のレベル以上でなければならないかというようなことで、執行官のいわば人生観というか世界観というか、そういうもので案外差異ができてくる。
最高裁判所長官代理者(西山俊彦) ただいま御指摘の民事執行法の百三十一条の一号に掲げてあります規定は、実は、これは改正前の旧民事訴訟法の五百七十条の一項一号と実質的には変わることがない規定になっておりまして、この規定の解釈といたしましては、新法と旧法とで異なっておらないというふうに考えておりますし、私どもの現在見ておりますところでは、運用上混乱を生じているというふうには実は認識しておらないわけでございます。
 私どもといたしましては、この差し押さえ――生活に欠くべからざるものであるかどうかというふうなことの基準をどういうふうにして考えるかという場合に、その当時の一般人の生活水準を考えて決めるか、それとも最低の生活水準を考えて決めるかということで、委員御指摘のような差が出てくることはこれはもう当然のことと存じますが、私どもが執行官に指導しておりますところでは、一応一般人の生活水準をも考えた上で、個々の具体的な事情に応じ、すなわち、債務者等の生活状況を加味して適宜修正を加えていくべきものであるということで指導しておるわけでございます。

 執行官によって取り扱いが違うと言われないようにするために、執行官室の中には、差押禁止物の取扱について「内規」(執行官相互の「合意」と言うべきでしょうか。)を作成したところもあるようですが、いくら内規を作ってみても問題が本質的に解決されるわけではありません。執行官自身がなにが正義かを自覚しない限り解決ではないからです。

 このように誤解を受けやすい動産執行事件を、執行官は1987年(昭和62年)には、453人で年間31万件も処理して(1人当たり年間688件)、社会の要請に応えていました。1982年(昭和57年)から1997年(平成9年)まで16年間の合計受理件数は111万件を超えます(毎年約7万件)。

 この頃、執行官は積極的に差押えを行っていたと聞きます。差押えた動産を買う業者もいたので、実際に売却も行われました。小川潤平「執行官物語」2001年(平成13年)11月文芸社発行)は、1991年(平成3年)から1997年(平成9年)まで執行官として勤務した経験に基づいて書かれており、その当時の動産執行の雰囲気が生々しくうかがわれます。(ただ、現在とは違うことも含まれていますから、お読みになるときはご留意ください。)

 しかしながら、1998年(平成10年)ころ以降、動産執行は急激に減少します。減少したのは、執行官が差押えができないケース(執行不能)が増えたことが原因と考えられます。動産執行は「約90%が不能で終わっているという状況」と言われています(2011年(平成23年)発行の「新民事執行実務」No.9の座談会の中での発言)。
 差押禁止物が昔に比べて増えていることもありますが(個人の現金は、現在、66万円までは差押禁止です。)、中古品の価値が低下し「売れる見込み」がなくなってきたことも、差押えの障害になっています。なお、最近は、かつて多かった信販会社やクレジット会社などの申立てが減少したことも指摘しておかねばならないでしょう。

 けれども、減少したと言っても、2010年(平成22年)に72,831件もの申立てがあることは忘れてはなりません。差し押える物があり、その経済的価値がある以上、動産執行による債権回収は可能です。曝松公平は、2003年(平成15年)から2009年(平成21年)までの間に、バイク、軽自動車などを差し押さえ、実際に売却しました(軽自動車は動産執行の対象になります。)。「強制執行の王様」動産執行は、まだまだ機能する制度ですから、債権者は簡単に諦めるべきではありません。

2011年11月26日土曜日

執行官ミニ歴史(3) 執行官受理事件数の変動と経済状況


 国(裁判所)は、国民の私的法律関係には介入しないのが原則です。利用者の求めがない限り、裁判所は民事訴訟を開始しませんし、執行官も執行には行きません。執行官の仕事は、利用者次第で、毎年増えたり減ったりします。

 執行官の主要3事件の年間受理件数はどのように変化してきたでしょうか?1970年(昭和45年)から2010年(平成22年)まで41年間について見てみましょう。(それ以前のデータは持ちません。ご了承ください。)

 次のグラフは、主要3事件の年間受理件数の41年間の平均をとり、各年の各事件の増減(割合)を調べたものです。(各事件とも、平均以上は0%より上に、平均以下は0%より下に表示されています。)
 このグラフで、平均以上の年は事件によって違い、動産執行は1984年(昭和59年)から1997年(平成9年)まで16年間、建物明渡は1996年(平成8年)以降15年間、現況調査は1984年(昭和59年)以降19年間(途中4年間は0%未満)であることが分かります。

 次のグラフは、件数の変化を見るために、前回掲げた主要3事件の41年間の総合計件数グラフを、バブル崩壊を1991年(平成3年)として、前後2つに分けてみたものです。


 受理件数は毎年変化していますが、長期的に見ると、大河のように緩やかに変化しているようです。この動きは、経済の動きを反映すると思われます。

 ここで、以下、簡単に、執行官法施行後の日本経済の動きを振り返ってみましょう。

 執行官法が成立して10年経たない間に金本位制、固定相場制は失われ(主要国が1973年(昭和48年)に変動相場制に移行)、日米の経済不均衡を是正するため、1985年(昭和60年)のG5で為替相場の調整を約する「プラザ合意」(注)が結ばれました。これは、この後日本にバブルとその崩壊を招き、その後も長い間為替の調整に追われる状況を招いた原因と言われます。

(注)プラザ合意の1年後には1ドル150円台の円高ドル安になったそうです。

 背景には「貿易黒字」がありました。日本の貿易黒字状況をインターネットで調べたところ、「超長期貿易収支推移」と題する記事(小澤徹3rdworldman's Blog)が見つかりました。そのグラフを引用させていただきますと、次のとおりです。

 1971年(昭和46年)の日本の貿易黒字は77億8700万ドルと前年のほぼ2倍に急増したと言われますが(日経平均プロフィル「ニクソンショックから過剰流動性相場へ」)、プラザ合意の頃の黒字額はそんなレベルではなく、その後の貿易黒字にも今更ながら驚かざるを得ません。

 貿易黒字で生まれた遊休資金は、日本国内で、株と土地に流れました。
 戦後の地価の高騰、すなわち土地バブルは2回あったと言われます(井上明義著「地価はまた下がる」(PHP研究所発行))。最初は、1971年(昭和46年)から1986年(昭和61年)まで地価の高騰が続いた「列島改造バブル」であり、次いで、1987年(昭和62年)から1991年(平成3年)まで著しい地価の高騰が見られた「不動産金融バブル」です。
 不動産金融バブルは、金融機関が資金運用難という未経験の局面を迎えて、自ら積極的に個人に対して住宅ローン融資等を行うようになって起きた「金融バブル」であり、その最盛期にとられた金融緩和政策のために地価が下落し、崩壊したと指摘されています。崩壊後に金融機関が多額の「不良債権」を抱えることになり、その処理が大きな問題となったのが特徴です。

 バブル崩壊後の経済状況を、衣川恵「新訂日本のバブル」日本経済評論社刊215頁以下は「平成不況」と呼び、「平成不況は、通常の不況とは大きく異なり、平成恐慌を内包した長波の大不況である」とし、次のように述べています。(以下、( )内和暦は曝松が挿入しました。)
 1991年(平成3年)~96年(平成8年)は、「1990年(平成2年)から始まる株価の暴落と91年(平成3年)から始まる地価の暴落の影響を受けた景気後退の時期」であり、「1997年(平成9年)から98年(平成10年)は平成金融恐慌となり、その影響を受けて98年(平成10年)から99年(平成11年)は平成恐慌となった。」としています。その後、「2000年(平成12年)から09年(平成21年)第一四半期現在の期間は、04年(平成16年)から07年(平成19年)までの2%前後の景気回復傾向を実現しながらも、好況局面を迎えることなく、08年(平成20年)に再びマイナス成長に戻って不況が続き09年(平成21年)にはさらに厳しい景況となった。」としています。

 執行官法施行後44年の間、執行官は「主要3事件」を処理してきたと言えますが、以上のような経済状況の変化を背景として、3事件のうちでは動産執行が少なくなり、現況調査(と建物明渡)が増えるという大きな変化が生じました。

2011年11月22日火曜日

執行官ミニ歴史(2) 執行官法成立当時の執行官の日常業務


 執行官法が成立したのは、日本が戦後の復興を遂げ、GNPが戦前を超え「もはや戦後ではない」と言われてから1956年(昭和31年)の経済白書)10年後のことでした。国民生活も豊かになって、冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが「三種の神器」と言われるようになった「高度成長期」は、1954年(昭和29年)から1973年(昭和48年)まで約20年間と言われます。その真っ只中で成立したことになります。

 この当時の執行官(旧執行吏)は1966年(昭和41年)3月末現在325人とされています(当時の国会答弁)。戦争直後328人でしたが、昭和35年まで増加したもののその後は毎年20数名退職するのを補充できなかったそうです。困難な仕事なのに処遇、待遇が十分でないため、希望者が少なかったと言われています。

 執行官法施行に伴い、これらの執行官を各裁判所は自分の庁舎内に受け入れましたが、当初は10程度は部屋が間に合わず机だけ入れたところもあったそうです。その後も、裁判所は、①執行官室の執務環境の整備1091年(昭和56年)までに執行官室の机、椅子、金庫などの必需品が整備された。)、②執行事務の地方裁判所への取り込み(会計事務など)、③執行官の資質能力の向上(執行吏代理の縮小など)、④手数料収入の合理化(プール制の採用など)などに努めたとされています(淺生重機(当時東京地方裁判所民事21部総括判事)「執行官制度の歴史と将来の展望」1992年(平成4年)3月民事執行実務No.22)。
 このような執行官制度の基盤強化は、「執行官の行なう民事裁判の執行その他の事務の運営を適正円滑化するため」(当時の参議院法務委員会説明)に行われました。

 では、執行官法施行当時、執行官はどんな仕事をしていたでしょうか?

 「執行官が取り扱うべきものとされている事務は、広範多岐にわたるが、(1)動産に対する執行、(2)不動産の引渡・明渡執行、(3)現況調査報告、(4)裁判所の発する文書等の送達が、執行官が日常処理する事務の主要なものといえるであろう。」(岡田潤(当時、裁判所書記官研修所長)「現況調査の実務」1985年(昭和60年)発行「執行官雑誌」No.16)とされています。
 執行官法施行当時も、執行官が日常的に処理する事務はこのとおりであったと考えて差し支えないと思います。

 執行官法施行当時は「現況調査はなかったはずだ」と言われるかもしれません。確かに、「現況調査」は1979年(昭和54年)に成立した民事執行法によって生まれた事務です。しかし、実は、民事執行法以前にも「賃貸借取調べ」と呼ばれる不動産調査を執行官は行っていました。債権者の申立てによって裁判所が個別に執行官に命じていた事務であり、現況調査のような法定の業務ではありませんが、1970年(昭和45年)にも24,404件受理しており、無視できません。この不動産調査は現況調査に匹敵すると考えることができます。

 では、現在はどうでしょうか。
 現在は、「(4)裁判所の発する文書等の送達」は日常的な事務とは言えません。送達事務は、1970年(昭和45年)には約62万件受理していましたが、1983年(昭和58年)には10万件を切り、その後急激に減少しました。仕事の性質も強制執行とは違いますから、現在は執行官の主要業務とは考えない方がよいでしょう。それ以外の3つの事務は、現在でも、執行官の主要事務と言えます。

 以下、前記岡田論文の(1)(2)(3)の3つの事務(注1)を順に「動産執行」(注2)「建物明渡」(注3)「現況調査」(注4)と呼ぶこととし、これらを「主要3事件」と呼ぶことにしますと、執行官法施行当時、執行官はこれらの事件をどのくらい受理していたでしょうか?

(注1)裁判所の「事務」は、「事件」と言い換えることができます。事件は、法律の手続上ひとまとまりの「案件」という意味とお考えください。
(注2)「動産執行」には担保権実行である「動産競売」事件を含みます。
(注3)「建物明渡」は、最高裁の統計上は「不動産等の引渡し」となっています。なお、これには不動産競売の「引渡命令の執行」事件を含みます。
(注4)「現況調査」には、「不動産評価」を含むほか、民事執行法以前の「不動産調査」を含みます。

 主要3事件の1970年(昭和45年)の受理件数(注5)は次のグラフのとおりです。執行官法施行直後のデータが筆者の手元にありませんので確実には言えませんが、執行官法施行当初の執行官も同様であっただろうと思われます。動産執行と送達(前述)に明け暮れる毎日だったのではないでしょうか。


(注5)執行官の事件数は最高裁ホームページで見ることができますが、過去の事件数については「執行官雑誌」や「民事執行実務」などの刊行物から取得しました。

 なお、ご参考までに、2010年(平成22年)の受理件数のグラフをお示ししておきます。動産執行が減り、建物明渡と現況調査が著しく増えています。40年後には、こんなに大きく変わりました。


 ここで、ついでに、1970年(昭和45年)から2010年(平成22年)まで41年間の主要3事件の合計受理件数を見ておきましょう。執行官の44年の歴史を通じた「執行官の仕事」の概要が分かると思います。
 次のグラフのとおり、執行官は主要3事件を、動産執行71%、建物明渡7%、現況調査22%という割合で受理して、仕事をしてきました。






2011年10月23日日曜日

執行官ミニ歴史(1) 執達吏、執行吏から執行官へ

 曝松公平は動産執行に行き「執行官」と名乗ったところ、債務者から「ああ、執達吏か」と言われたことがあります。2003年(平成15年)のことです。言ったのは70歳を超えた老人でしたが、驚きました。

 執達吏(しったつり)というのは執行官の旧称です。1890年(明治23年)の裁判所構成法によって、区裁判所に「執達吏」を置くと定められたときの名称であり、明治以来、太平洋戦争まで続きました。「執達」という漢字は「上位の者の意向・命令を下位の者に伝える」という意味のようですが、同様の意味の「通達」とは、「通」の代わりに、執行の「執」が使われている点が異なります。

 執達吏は①手数料制②役場制③自由選択制を基本としていました。「役場」は仕事をする場所のことですから、「役場制」は、執達吏自身が仕事場を設け、運営する体制を意味します。依頼者は自分で選んだ執達吏の役場に行き、執行を依頼し、執達吏は依頼者から手数料をもらうという仕組みになっていたわけです。

 執達吏と呼ばれたのは太平洋戦争までです。戦後、1947年(昭和22年)には「裁判所法」が制定され、執達吏は「執行吏」と名称が変わります。この名称変更は、日本国憲法の制定で監督体制が変わったためで、実体の変更は伴いませんでした。
 これを考えると、老人が「執行吏」と言わなかったのは分かるような気がしますが、それにしても、「執達吏」とは古すぎないでしょうか。

 執行官という現在の呼称に変わったのは1966年(昭和41年)の「執行官法」の制定によってですから、今から45年も前のことです。

 「執行吏」から「執行官」への名称変更は、同じ公務員でも、地位が変わったことを意味しています。「官吏」は公務員を指すことばですが、厳密には「官」は国の、「吏」は地方の公務員を指します。執行官への名称変更は、執行官が「吏」から「官」に変わったことを意味するわけです。

 当然、実体の変更を伴いました。その改正点は、淺生重機(当時東京地方裁判所民事21部総括判事)「執行官制度の歴史と将来の展望」1992年(平成4年)3月民事執行実務No.22によると「一言で言うと、役場制と自由選択制を廃止し、公務員としての性格を強化するということである」とされ、「その具体的内容は、(1)裁判所の庁舎内で執務し、(2)事務分配は原則として所属の地裁が定める、(3)金銭の保管は、地裁がその事務として行う、(4)名称を執行官と改める、ということであった。」とされています。

 執達吏制度については、当時から、①執行の遅延(執行に着手するまでに相当の期間を要した。)、②権威の失墜(執行吏が委任者の代理人であるかのような印象を与えた。)、③職務執行の不明朗、不公正(当事者との間に情実が生じやすい。)、④執務体制の前近代性(役場制のため裁判所の監督が不十分)、⑤地位、待遇の不安定などの弊害が指摘されており、執行官法の制定はこれらの弊害に対処するためであったそうです(前掲淺生論文)。(手数料制は現在も残っています。)

 老人が20歳台には執行官はもう「執行官」だったはずなのに、何故、老人は「執達吏」と言ったのでしょうか?かなり昔の記憶がそのとき呼び起こされたのかもしれません。そうだとすると、強制執行、いや執行官は、多くの人にどんなに強い印象を残すものか、改めて考えさせられました。その老人は執行官に対してどんなイメージを抱いていたのでしょうか。曝松公平は今でも気になっています。

 現在の執行官は、「官署としての地方裁判所に置かれ、法律の定めるところにより裁判の執行、裁判所の発する文書の送達その他の事務を行う独立かつ単独制の司法機関であって、同名の国家公務員によって構成される(裁62条)。」と説明されています(中野貞一郎「民事執行法(新訂4版)」52頁)。