2013年4月12日金曜日

執行官ミニ歴史(9) 新世代執行官



 執行官法は1966(昭和41年)627日に成立し、同年1231日から施行されました。当時の地方裁判所(以下「地裁」と言います。)は全国に49、地裁の「支部」は228(甲号支部63、乙号支部165ありました。(なお、現在は地裁は50(昭和57年沖縄復帰)、地裁支部は203(平成2年支部適廃)です。

 執行官法は「役場制」を廃止しましたから、執行官約340(注1は、上記の本庁、支部合わせて277の裁判所の「執行官室」を拠点として仕事をするようになりました。
 しかしながら、執行官の配置は、「都市部」と「地方」で格差のあった執行吏時代(注2を引き継ぎましたから、東京のように20数人が配置された裁判所がある反面、「地方」の多くの裁判所では執行官は極めて少ないのが実情でした。また、執行官が配置されないため、裁判所書記官が執行を担当(注3した裁判所も少なくなかったと思われます。

(注1 340というのは「代理」を除いた人数です。執行官と執行官代理とを合わせるとその数は570人ほどとになります。執行官代理は、通算して52人が執行官に組み込まれ、平成4年頃までにほぼ解消されましたが、この間の執行官数を理解する上では「代理」の存在を念頭に置く必要があります。

(注2 法制審議会強制執行部会小委員会が1954年(昭和29年)から数年間にわたって、執行吏制度の実情調査を行った結果、「大都市と地方都市の間では、収入、役場規模等の点において大差があり、小都市の執行吏の役場経営はほとんど事業体の形をなしていないこと」が指摘されています(西村宏一・貞家克己編集「執行官法概説」55頁)。

(注3 裁判所は、執行官を配置できない場合には、裁判所書記官に執行官の職務の全部又は一部を行わせることができる(裁判所法20条)とされ、これを行う書記官は「執行官事務取扱書記官」と呼ばれます。離島の簡易裁判所の書記官が指定されるケースなどもありました。なお、現在も1支部でこの態勢がとられているようです。

 ちなみに、1968(昭和43年)の各地裁の執行官数は次のグラフのとおりでした(データは前掲「執行官法概説」の統計資料によりました。)

【グラフ説明】庁名は現在のものを使用しました。沖縄復帰以前のため、那覇地裁はありません。高裁所在地の地裁にデータラベルを表示しました。

 ところで、執行官法は、債権者が執行官を選び、執行を委任する「自由選択制」を廃止し、裁判所が事務分配を定め、執行官に執行を行わせる態勢を採るよう改めました。
 このため、裁判所は必要な数の執行官を確保すべき立場に立つことが一層明確になりましたが、執行吏数は昭和35年をピークに減少傾向にあり(前回ブログ参照)、執行官法案審議の際にも「執行官は100名の増員が必要」(当時の国会答弁)と言われましたから、裁判所は、執行官法施行とともに、「執行官の増員」という大きな課題を抱えることになりました。

 執行官には「定員」はなく、執行官数は各地裁(の「裁判官会議」)で、処理する事務量に応じて決めることができます。したがって、もし、執行官が俸給制であったなら、裁判所は、事務量に応じて、予算の許す限り多数の執行官を配置することができますが、執行官法の下でも「手数料制」は維持されました。
 手数料制の下で増員を行う場合には、増員によって生じる執行官の収入減という問題(注4への配慮が必要になります(注5)。手数料制は「収入は士気につながる」という考えを基にしていますから、裁判所としては、収入減が執行官の士気を低下させ、執行業務に支障を生じるおそれがないか、考えなければならないのです。

 このため、裁判所は、一般には、少なくとも数年程度の事務量の変化を予測して(6)、いわば慎重に、増員を行っていくことになります。

(注4 増員は、多くの場合(すなわち、増員数に応じた事件数の伸びが継続しない限り)、執行官の収入減をもたらします。執行官が少ない(元々事件数が少ない)ところほど、増員の影響は大きくなります。例えば、1人配置のところを2人にすると、事件が増えない限り、執行官の収入は半減します。

(注5 公務員として厳正に職務を遂行する立場にある執行官の心構えとして、手数料制だからこそ「少なくとも営利を追求する意識だけは完全に清算することが要請される」(西村宏一講演「執行官法の制定を顧みて」民事執行実務No.17(昭和62年)70頁)と言われます。
 多くの執行官も、この意見に同調するはずです。けれども、論者も、その前提として「相当額の事務経費を執行官が負担しなければならない現状においては、完全に企業性を消滅させるということは困難であるとしても、」と断っておられます。手数料制のため、執行官が、現実に自営業主であるという事実も否定することはできないのです。
 ・・・手数料制の下では、執行官は日常的にこのアンビバレントな局面に直面しています。立場こそ違え、裁判所にとってもこの問題は大きな問題です。
 翻って考えてみますと、このような問題は、実は、どのような職業にも付きまとっているのではないでしょうか?例えば、囲碁棋士の藤沢秀行は、その著「盤上のロマン1」(昭和53年平凡社)の序文で「碁は芸か勝負か。私は芸だと思っているし、そういう碁を打ちたい。一生に一手でも、これはという手が打てれば満足だ。しかし一般的には、芸の要素と勝負の要素とが相半ばしているというのが正解だろう。」と簡潔に述べています。いずれかを否定すれば済む問題ではありません。

(注6 執行官数の増減は、実際上は、辞職を承認したり(執行官には定年はありません。)、採用すること、つまり人事によって実現されます。執行官は、通常は、採用後65歳(これが執行官の事実上の定年年齢です。)までの勤務を想定しなければなりませんから、増員といえども中長期的な人事計画が必要です。そのためには、執行官の事務量について少なくとも数年先までの見通しを持たねばなりません。

 では、執行官法施行後、執行官の事務量はどのように変化し、執行官数はどう動いたでしょうか?筆者が手持ちの公刊物等で把握した限りのデータに基づく不十分な分析ですが、2002年(平成14年)ころまでを振り返ってみましょう。

 執行官の事務量をどう見るかということ自体、超難問ですが、「物差し」は必要ですから、筆者が主要3事件の事件数に基づいて指数化したグラフを掲げます(筆者の独断に基づくことには、くれぐれもご注意ください。)。執行官の事務量(全国)は下のグラフのように変化したと考えてほぼ間違いはないだろうと考えます。
【グラフ説明】主要3事件の各事件の負担比率を、動産執行は「1」、建物明渡は「10」、現況調査は「3」と仮定して、年間事務量(全国)を指数化し、その変化を見てみました。事務量指数は10041年間の平均値です。
 なお、上記の負担比率は、41年間を通じた総負担は3事件ともに等しいと(勝手に)仮定して、41年間の総受理件数が、動産執行を基準にして、現況調査は3分の1、建物明渡は10分の1であることから算出しました。現況調査の比率を高めると、1983年(昭和58年)ころ以降の指数はもっと高まります。

 執行官数は以下のように推移しました。
(注意)以下にお示しする執行官数は、筆者手持ちの刊行物で判明する数のほか、推定した数を含みます。必ずしも正確ではない場合があることをお断りしておきます。間違いはご指摘いただければ幸いです。

1)1982(昭和57年)ころまで・・・・・350400人未満
 事務量指数は4060で推移しており、増員はされましたが、執行官数は400人未満で推移したと思われます。(前掲グラフのとおり、1968年(昭和43年)は366人でした。)
 この15年間に行われた増員は、毎年平均4(各地裁単位では0.1人弱)という安定感のある、いわば緩やかな増員でした。

2)1983(昭和58年)から1988(昭和63年)ころまで・・・・・400人台
 事務量指数は民事執行法施行後に急速に高まり、1986年(昭和61年)から1988年(昭和63年)までの3間は130台と、最初のピークを迎えました。1983年(昭和58年)以降の年間で合計109人の増員が行われ、1988年(昭和63年)の執行官数は494人となりました。しかしながら、500は超えませんでした。

3)1989(平成元年)から1997(平成9年)ころまで・・・・・480530
 事務量指数は、バブル崩壊とともに100を切って低下しましたが、1992年(平成4年)には102に回復し、その後120程度まで上昇しました。執行官数は、「平成2年以降、485名から520名ないし530名程度」で推移したと言われます(林道晴(執筆当時、最高裁判所事務総局民事局弟一課長)「平成10年以降の不動産執行手続の運営改善について」(判例タイムズ1069号))
 事務量指数が低下するという事態を初めて迎えたためか、1991年(平成3年)521人→1992年(平成4年)511人のように、事務量指数に対応しない執行官数の変動も見られ、やや安定感を欠くようですが、通算すると緩やかな増員が行われました。

4)1998(平成10年)ころ以降・・・・・520650
 執行官数は、1998(平成10年)以降2002(平成14年)までの5年間に108人の増員が行われ、2002(平成14年)12月の執行官数は634人となりました(「新民事執行実務No.1」)。地裁別の執行官数は下のグラフのとおりです(前掲昭和43年のグラフに追加しました。)
 なお、2004年(平成16年)には執行官数は650人を超えたと思われますが(これが執行官の歴史上最も多い数です。)、その後は減少しています。

 以上の経過を振り返ってみて、1998(平成10年)の前後で増員速度が大きく違うことに気が付かれたことでしょう。すなわち、上記1)2)3)の30年間に行われた増員は約180(約340人→約520人)であり、平均して毎年6(各地裁0.1人)の増員が行われたことになりますが、上記4)、1998(平成10年)以降は、2003(平成15年)までの6年間に約120(約530人→約650人)の増員が行われました。平均すると、毎年20(各地裁0.4人)の増員が行われたことになります。

 1998(平成10年)以降は、上記の事務量指数は130台であり1988(昭和63年)ころと変わりなかったのですから、従来なら、さらに増員をするという考えには結びつかなかったはずです。それにもかかわらず増員が行われたのは、執行官の必要数について裁判所の基本認識が大きく変化したことを示しています。

 すなわち、この頃、手数料制にかかわる、画期的な制度改革が行われました。1999(平成11年)から始まった、不動産売却手数料の50%の「全国均等配分制」です。
 これは、全国で行われた不動産売却の手数料の50%を全国の執行官に均等に配分する制度です。多くの地裁の執行官室で、不動産売却手数料をプールして執行官で平等配分することが既に行われていましたが(「プール制」と呼ばれました。)、これが、50%にとどまるとはいえ、全国規模で行われることになったのです。

 この結果、約1世紀、厳格に守られ続けてきた手数料制は「緩和」され、その緩和された手数料制の下で、執行官1人当たりの適正な事務量(「配置基準」とも言われます。)の見直し(注7が行われて、増員が行われました。筆者は、この制度の導入が、この時期に実施された一連の制度改革(注8の出発点となったと理解しています。

(注7 従来、執行官の事務量は「動産執行」を基準として判断されていたように思います。前掲の昭和43年の執行官数グラフはその典型であり、「動産執行シフト」と言ってよいでしょう。ところが、その後の平成14年のグラフは、現況調査を基準とした「不動産競売シフト」とも呼ぶべき状況に変化しました。執行官の配置を現況調査を中心に考えるように変わったと思われます。

(注8 一連の制度改革の要点として、中脇慎二郎(最高裁判所事務総局民事局第三課課長補佐)「執行官制度の改革及び方向」(新民事執行実務No.1)には、①執行官配置の適正化(2002年(平成14年)41日現在員は平成10年に比べて100人の増員など)、②経済基盤の整備(平成117月から不動産売却手数料を全執行官で均等配分する制度が発足)、③採用選考資格の明確化(公務員は行政職俸給表(一)7級以上、公務員以外は法律実務経験15年以上という応募基準で公募して試験を実施することが明確化された。)、④総括執行官制度(平成14年4月から全国で執行官室を統括する執行官が任命されることとなった。)が挙げられています。
 詳細は、林道晴(当時最高裁判所事務総局民事局弟一課長)「平成10年以降の不動産執行手続の運営改善について」(判例タイムズ1069号)をお読みください。また、林道晴(執筆当時最高裁判所事務総局民事局長)「執行官制度改革の10年とこれから」(平成223月「新民事執行実務No.8」も御参照ください。

 なお、以上のような増員は、折から進んでいた執行官の世代交代を促進することになったことも忘れてはなりません。
 すなわち、裁判所一般職員から任用された執行官は1996年(平成8年)ころ以降5年ほどの間に一斉に退職しましたから(注9、増員と相俟って、この頃、執行官の大多数が若年者と入れ替わっていったのです。新任執行官研修の参加者は毎年100人ほどにもなり、40歳代の執行官や、裁判所外から採用された執行官も増えたようです。(現在の執行官の中では2000年(平成12年)採用者が最も多いようです。)

(注9) 裁判所の一般職員(つまり裁判官以外の職員)は、終戦直後、昭和215,973人→昭和228,762人→昭和2318,195人と、戦前の3倍に増加しました(出典:「裁判所百年史」資料第六「裁判所の職員巣の推移」)。この頃大量採用された一般職員が、昭和60年の定年制の施行に伴って、1990年(平成2年)~1993年(平成5年)ころに一斉に大量退職しました(退職のピーク期は裁判所によって若干ずれがあります。)。
 この大量退職世代から任用された執行官が、執行官の事実上の定年年齢65歳(執行官は定年制ではありません。)を迎えたのが1995年(平成7年)頃からであり、再任用なども行われた結果、1996年(平成8年)ころ以降5年間ほどは、毎年、60人から80人が退職する、いわば執行官の大量退職期に当たりました。

 このように、上記の一連の制度改革が行われ、増員によって執行官の世代交代(若年化)も急速に進みましたから、2002(平成14年)には、執行官は「新」時代を迎えたと言うことができます。
 これを象徴するのが、2003(平成15年)に日本執行官連盟が発行した「新民事執行実務No.1です(注10。その巻頭言で、古島正彦日本執行官連盟会長は、執行官に対し新たなスタートを切る覚悟を求めました。緩やかな手数料制は、過去にはなかった新たな「心構え」を持つことを執行官に求めました。

(注10) なお、最高裁の「執行官雑誌」は、これを機に平成14年版No.33で打ち切られました。

 ・・・それから、既に10年が経過しました。「新」時代の執行官もそろそろ後継者にバトンを渡す時期にさしかかっています。執達吏が生まれてから124年目を迎える今、執行官一人一人が「新」時代を総括し、次の世代に引き継ぐ気持ちを持つことがなにより大事になっているのではないでしょうか。


2013年3月11日月曜日

執行官ミニ歴史(8) 強制執行に携わった人々(改訂版)


 強制執行は、どの国でも、「力」すなわち自力救済から出発し、国家的救済へ移行したと言われます。手続法が整えられ、国の執行機関が置かれるまで、すなわち近代的強制執行制度が成立するまでには、ヨーロッパでも長い年月がかかっています。

 「執行の歴史に現れる人間像は、多彩である。往昔には、債権者による拿捕・殺害を恐れて密かに家郷を逃れる債務者の姿があり、債務が支払えないため奴隷的身分に落ちて売却・使役される債奴ないしこれに準ずる制度は、中世末期まで続く。そのあとを継ぐ債務拘禁は、実に一九世紀半ばに至っても、まだ余命を保っていた。」(中野貞一郎「民事執行法」新訂四版7頁)と言われます。

 明治初期の日本では、「裁判結果を実現する民事的執行は、江戸時代以来の身代限(シンダイカギリ)を中心に、それを基礎にして一定の改良を加える形で行われた。」(梅田康夫「明治初期における民事執行機関の形成について()()」)と言われます。(文中の振り仮名は曝松が付しました。)
 なお、1871年(明治4年)に廃藩置県が行われ、1878年(明治11年)には府県の下の行政単位が郡区町村と改まりましたが、前記梅田論文は、「身代限の手続きは建前上は郡長区長の職務とされながら、実際上は戸長を中心に行われてきた」「身代限の執行者は、戸長を含め広い意味での地方官吏であった。」とされています。行政と司法との境も明確ではなく(注1、民事と刑事との区別も混沌としていた時代した。

(注1) 1875年(明治8年)に「大審院」が設置されましたが、(各府県に設置されることとなっていた)府県裁判所も1877年(明治10年)ころまでは47府県で未設置で、地方官が裁判官を兼ねていたと言われます(「裁判所百年史」20頁)。

 身代限は「強制執行と破産を包含した制度」(「裁判所百年史」34頁)と言われますが、手続きはどのように進められたのでしょうか?

 1872年(明治5年)6月の太政官布告「華士族平民身代限規則」は、「身代限が申し付けられたときは、三〇日間裁判所門前の高札場、本人の家宅及び新聞紙を刊行する地においては新聞紙にこれを掲示又は記載することを規定し、その間に他の債権者が債権を申し出ることを許すこととした。また、華士族、平民それぞれについて、衣服、炊具類、本人の職業のために必要な物品等の差押禁止範囲を定め、差押物件は入札により処分することを規定した。・・・(中略)・・・さらに、入札の日より三日前には、売却する品物及び場所、時刻を・・・(中略)・・・掲示又は記載することを規定し、町・村役人が、入札を比較して最も高い値で入札した者を買受人とし、買受人から代金を取り立てて裁判所に提出させることを規定した。」(「裁判所百年史」同頁)と言われます。家財を差し押え売却するのは動産執行と同じです。

 日本で近代的強制執行制度が成立したのは、1889年(明治22年)211日大日本国憲法が発布された後(施行は明治231129日)、民事訴訟法の制定によって手続法が整備され(施行は1891年(明治24年)11日)、「裁判所構成法」(注2によって「執達吏」が生まれた1890年(明治23年)のことです。今から120年以上前です。

(注2) 裁判所構成法は1890年(明治23年)210日に公布され(施行は同年111日)、その後約60年間にわたって(部分的な改正はありましたが)裁判所の制度、機構を規制しました。

 この「当時の裁判所の数は、大審院1、控訴院7地方裁判所47、区裁判所300」です(「わが国における裁判所制度の沿革(二)」法曹時報)(注3。執達吏は区裁判所に置かれました。

(注3) 1892年(明治25年)には、沖縄の那覇に那覇地方裁判所が開庁し(司法省告示第25号)、また、「地方裁判所支部及び区裁判所は、逐次各地に設けられ、または裁判事務を開始した。」(「わが国における裁判所制度の沿革(二)」法曹時報)ということです。

 執達吏が、当事者から受ける手数料を収入としたこと(手数料制)、執務の本拠地として裁判所の外に役場を設けたこと(役場制)、原則として、当事者の自由選択に基づく委任によって事務を取り扱ったこと(自由選択制)は、既にご承知のとおりです。

 では、どういう人達が執達吏になり、また、執達吏は何人くらいいたのでしょうか?

 執達吏の資格、試験に関する規則は司法大臣が定めるとされ(裁判所構成法952項)、これを受けた司法省令「執達吏登用規則」によると、「執達吏に任命されるためには、六箇月間職務を修習した後試験に合格することが必要とされたが、官立府県立中学校等の卒業者、裁判所書記登用試験及第者、判任官以上の前歴を有するもの及び陸軍下士で文官奉職を希望することができる者については、執達吏となるための試験が免除され、さらに明治二四年司法省令第6号による一部改正後は、区裁判所書記は職務修習をも要せずして執達吏に任命され得ることとされていた。」(西村宏一・貞家克己編集「執行官法概説」11頁)そうです。

 「執達吏の数は、明治23年には193人であったが、明治24年には200人をこえ、明治25年から同33年までは300人台、明治34年から同36年までは400人台となった。明治37年から大正年間を通じ昭和6年に至る間はおおむね500人台、昭和7年から同13年までは600人をこえ、最も多数であったのは昭和9年の666人であった。昭和14年以降は減少の傾向を示し、昭和14年、15年は500人台、昭和16年、17年は400人台となり、昭和18年には375人、昭和19年には335人となった。」(前掲書22頁)とされています。

 執達吏数は意外に多かったようです。制度発足から15年経たない間に2倍以上、500人台に増え、最多数は600を超えています。
 これがどういう状況に基づくのかは、筆者の理解力を超えていますが・・・「明治後期から大正年代にかけて、わが国の版図が拡大するに伴い、あたらしく、各地に、わが裁判権を行使する裁判所が設けられた。」(「わが国における裁判所制度の沿革(二)」法曹時報)と言われることも関係があるのでしょうか。

 あるいは、事件が増えたのでしょうか?この頃は、送達件数が現在とは比べものにならないくらい多かったと考えられます(執行官ミニ歴史(5)参照)。しかしながら、増加の途上にあったといっても、明治初期の人口は3,400万人に過ぎませんし、民事訴訟事件も戦後に比べ少なかったのです。
 ここで、参考のため、1890年(明治23年)以降2001年(平成13年)までの、全裁判所が第一審として受理した民事通常訴訟事件数を見ておきましょう。次のグラフのとおりです。

【グラフ説明】行政訴訟を除く民事通常訴訟の統計ですが、112年間もの長期間の統計であり、法律の違いやデータ不足なども含まれていることにご注意ください。厳密には、「裁判所データブック2002」の注意書をご参照ください。

 太平洋戦争は1941年(昭和16年)128日に始まり、1945年(昭和20年)8月に終戦を迎えました。日本国憲法は1946年(昭和21年)113日公布され、1947年(昭和22年)53日から施行されました。

 この憲法の下で、裁判所制度も改正する必要があるとして、「裁判所法」が1947年(昭和22年)416日に公布され、日本国憲法と同時に施行されました(これによって裁判所構成法は廃止されました。)。
 執達吏制度は、名称が「執行吏」と変わったこと、執行吏は地方裁判所に置かれることとなったこと以外にめぼしい変更はなく、人数等もそのまま引き継がれました。

 執達吏制度については、裁判所構成法制定時にも、また、制度発足後数年を経ない帝国議会においても、手数料制とすべきか、固定俸給制とすべきかという制度の根本をめぐって議論が行われた経過があります(注4(西村宏一・貞家克己編集「執行官法概説」9頁以下参照)。また、昭和に入ってからは、司法省で、執達吏制度を含む、強制執行及び競売制度の根本的改正のための検討作業も行われたようですが、「結論を得ないまま戦争の激化を迎え、次第に強制執行事件等の件数そのものが激減するとともに、執達吏の数も減少の一途をたどり、ついに強制執行及び競売の手続並びに執達吏制度の改革は、立法作業の表面からしばし消え去る運命となった。」(前掲書15頁以下参照)と言われます。裁判所法の制定に当たっては、執達吏制度に関する限り、以上のような根本的な議論は行われなかったようです(前掲書24頁以下参照)(注5

(注4) 例えば、「執達吏があくことを知らぬ得意先の御先棒をかついで、その気にいるように働くという弊をなくしなければならない。」、執達吏が「利益の多少、損得という感覚をもって仕事をすることがないように」しなければならないなどの批判がある一方で、「執達吏が過酷であるとか残忍であると言われるが、その弊害は非難されるほど大きなものではない。」「むしろ権利者から見ると、現行制度のもとでは簡易迅速に事務が運営されている。」といった擁護論も見られました。このような議論がきっかけで、一部大都市で「合同役場方式」が導入されるようになったとも指摘されています(前掲書13頁)。

(注5) 日本国憲法の下では官吏制度について根本的改正が行われ「国家公務員法」(昭和22年法律第120号)が制定されました。これによって執行吏は形式的にも国家公務員となりました(これ以前は、「形式上の官吏とは言えず、官吏待遇者あるいは待遇官吏と言われるものであった」(執行官報概説11頁)そうです。)。なお、執行吏を含む裁判所職員は、裁判所職員臨時措置法(昭和26年法律第299号)により、国家公務員法が準用される「特別職」の公務員となりましたが、執行吏は手数料制のため、裁判所職員の中でも特殊な位置付けとなっています。例えば「定員」はありません。

 戦後の執行吏数は、執行官法をめぐる国会での審議の過程で、1955年(昭和30年)328人、その後徐々に増加し1960年(昭和35年)354人、これ以降は減少傾向を示し1965年(昭和40年)330人、1966年(昭和41年)325人であったことが判明します(昭和4167日衆議院法務委員会)
 ただ、執達吏もそうでしたが、執行吏には「代理」が存在したことは忘れられてはなりません(注41966年(昭和41年)の執行吏代理は245人でした。

(注4) 「代理」が存在したということから、執達吏、執行吏の数は「絞られていた」と見ることができそうです。しかも、昭和41年当時の執行吏は、半数以上が60歳以上の高齢者であったそうですから(国会答弁)、同一人が長く執行吏として勤務したこともうかがえます。独自に役場を構え、経営する体制ですから、そうなるのが自然だろうと思います。

 そして、戦後20年を経て、1966年(昭和41年)に執行官法が成立します。1890年(明治23年)以来、77年間、「ほとんどみるべき改善が加えられることなく」(執行官法概説)続いた執達吏、執行吏制度に、初めて改革のメスが入れられることとなったのです。

 執行官制度発足当初の執行官数は約340人と考えられます(執行官ミニ歴史(5)で触れたとおり、初年度は、執行吏325人と執行吏代理17人が執行官になりました。)