2013年3月11日月曜日

執行官ミニ歴史(8) 強制執行に携わった人々(改訂版)


 強制執行は、どの国でも、「力」すなわち自力救済から出発し、国家的救済へ移行したと言われます。手続法が整えられ、国の執行機関が置かれるまで、すなわち近代的強制執行制度が成立するまでには、ヨーロッパでも長い年月がかかっています。

 「執行の歴史に現れる人間像は、多彩である。往昔には、債権者による拿捕・殺害を恐れて密かに家郷を逃れる債務者の姿があり、債務が支払えないため奴隷的身分に落ちて売却・使役される債奴ないしこれに準ずる制度は、中世末期まで続く。そのあとを継ぐ債務拘禁は、実に一九世紀半ばに至っても、まだ余命を保っていた。」(中野貞一郎「民事執行法」新訂四版7頁)と言われます。

 明治初期の日本では、「裁判結果を実現する民事的執行は、江戸時代以来の身代限(シンダイカギリ)を中心に、それを基礎にして一定の改良を加える形で行われた。」(梅田康夫「明治初期における民事執行機関の形成について()()」)と言われます。(文中の振り仮名は曝松が付しました。)
 なお、1871年(明治4年)に廃藩置県が行われ、1878年(明治11年)には府県の下の行政単位が郡区町村と改まりましたが、前記梅田論文は、「身代限の手続きは建前上は郡長区長の職務とされながら、実際上は戸長を中心に行われてきた」「身代限の執行者は、戸長を含め広い意味での地方官吏であった。」とされています。行政と司法との境も明確ではなく(注1、民事と刑事との区別も混沌としていた時代した。

(注1) 1875年(明治8年)に「大審院」が設置されましたが、(各府県に設置されることとなっていた)府県裁判所も1877年(明治10年)ころまでは47府県で未設置で、地方官が裁判官を兼ねていたと言われます(「裁判所百年史」20頁)。

 身代限は「強制執行と破産を包含した制度」(「裁判所百年史」34頁)と言われますが、手続きはどのように進められたのでしょうか?

 1872年(明治5年)6月の太政官布告「華士族平民身代限規則」は、「身代限が申し付けられたときは、三〇日間裁判所門前の高札場、本人の家宅及び新聞紙を刊行する地においては新聞紙にこれを掲示又は記載することを規定し、その間に他の債権者が債権を申し出ることを許すこととした。また、華士族、平民それぞれについて、衣服、炊具類、本人の職業のために必要な物品等の差押禁止範囲を定め、差押物件は入札により処分することを規定した。・・・(中略)・・・さらに、入札の日より三日前には、売却する品物及び場所、時刻を・・・(中略)・・・掲示又は記載することを規定し、町・村役人が、入札を比較して最も高い値で入札した者を買受人とし、買受人から代金を取り立てて裁判所に提出させることを規定した。」(「裁判所百年史」同頁)と言われます。家財を差し押え売却するのは動産執行と同じです。

 日本で近代的強制執行制度が成立したのは、1889年(明治22年)211日大日本国憲法が発布された後(施行は明治231129日)、民事訴訟法の制定によって手続法が整備され(施行は1891年(明治24年)11日)、「裁判所構成法」(注2によって「執達吏」が生まれた1890年(明治23年)のことです。今から120年以上前です。

(注2) 裁判所構成法は1890年(明治23年)210日に公布され(施行は同年111日)、その後約60年間にわたって(部分的な改正はありましたが)裁判所の制度、機構を規制しました。

 この「当時の裁判所の数は、大審院1、控訴院7地方裁判所47、区裁判所300」です(「わが国における裁判所制度の沿革(二)」法曹時報)(注3。執達吏は区裁判所に置かれました。

(注3) 1892年(明治25年)には、沖縄の那覇に那覇地方裁判所が開庁し(司法省告示第25号)、また、「地方裁判所支部及び区裁判所は、逐次各地に設けられ、または裁判事務を開始した。」(「わが国における裁判所制度の沿革(二)」法曹時報)ということです。

 執達吏が、当事者から受ける手数料を収入としたこと(手数料制)、執務の本拠地として裁判所の外に役場を設けたこと(役場制)、原則として、当事者の自由選択に基づく委任によって事務を取り扱ったこと(自由選択制)は、既にご承知のとおりです。

 では、どういう人達が執達吏になり、また、執達吏は何人くらいいたのでしょうか?

 執達吏の資格、試験に関する規則は司法大臣が定めるとされ(裁判所構成法952項)、これを受けた司法省令「執達吏登用規則」によると、「執達吏に任命されるためには、六箇月間職務を修習した後試験に合格することが必要とされたが、官立府県立中学校等の卒業者、裁判所書記登用試験及第者、判任官以上の前歴を有するもの及び陸軍下士で文官奉職を希望することができる者については、執達吏となるための試験が免除され、さらに明治二四年司法省令第6号による一部改正後は、区裁判所書記は職務修習をも要せずして執達吏に任命され得ることとされていた。」(西村宏一・貞家克己編集「執行官法概説」11頁)そうです。

 「執達吏の数は、明治23年には193人であったが、明治24年には200人をこえ、明治25年から同33年までは300人台、明治34年から同36年までは400人台となった。明治37年から大正年間を通じ昭和6年に至る間はおおむね500人台、昭和7年から同13年までは600人をこえ、最も多数であったのは昭和9年の666人であった。昭和14年以降は減少の傾向を示し、昭和14年、15年は500人台、昭和16年、17年は400人台となり、昭和18年には375人、昭和19年には335人となった。」(前掲書22頁)とされています。

 執達吏数は意外に多かったようです。制度発足から15年経たない間に2倍以上、500人台に増え、最多数は600を超えています。
 これがどういう状況に基づくのかは、筆者の理解力を超えていますが・・・「明治後期から大正年代にかけて、わが国の版図が拡大するに伴い、あたらしく、各地に、わが裁判権を行使する裁判所が設けられた。」(「わが国における裁判所制度の沿革(二)」法曹時報)と言われることも関係があるのでしょうか。

 あるいは、事件が増えたのでしょうか?この頃は、送達件数が現在とは比べものにならないくらい多かったと考えられます(執行官ミニ歴史(5)参照)。しかしながら、増加の途上にあったといっても、明治初期の人口は3,400万人に過ぎませんし、民事訴訟事件も戦後に比べ少なかったのです。
 ここで、参考のため、1890年(明治23年)以降2001年(平成13年)までの、全裁判所が第一審として受理した民事通常訴訟事件数を見ておきましょう。次のグラフのとおりです。

【グラフ説明】行政訴訟を除く民事通常訴訟の統計ですが、112年間もの長期間の統計であり、法律の違いやデータ不足なども含まれていることにご注意ください。厳密には、「裁判所データブック2002」の注意書をご参照ください。

 太平洋戦争は1941年(昭和16年)128日に始まり、1945年(昭和20年)8月に終戦を迎えました。日本国憲法は1946年(昭和21年)113日公布され、1947年(昭和22年)53日から施行されました。

 この憲法の下で、裁判所制度も改正する必要があるとして、「裁判所法」が1947年(昭和22年)416日に公布され、日本国憲法と同時に施行されました(これによって裁判所構成法は廃止されました。)。
 執達吏制度は、名称が「執行吏」と変わったこと、執行吏は地方裁判所に置かれることとなったこと以外にめぼしい変更はなく、人数等もそのまま引き継がれました。

 執達吏制度については、裁判所構成法制定時にも、また、制度発足後数年を経ない帝国議会においても、手数料制とすべきか、固定俸給制とすべきかという制度の根本をめぐって議論が行われた経過があります(注4(西村宏一・貞家克己編集「執行官法概説」9頁以下参照)。また、昭和に入ってからは、司法省で、執達吏制度を含む、強制執行及び競売制度の根本的改正のための検討作業も行われたようですが、「結論を得ないまま戦争の激化を迎え、次第に強制執行事件等の件数そのものが激減するとともに、執達吏の数も減少の一途をたどり、ついに強制執行及び競売の手続並びに執達吏制度の改革は、立法作業の表面からしばし消え去る運命となった。」(前掲書15頁以下参照)と言われます。裁判所法の制定に当たっては、執達吏制度に関する限り、以上のような根本的な議論は行われなかったようです(前掲書24頁以下参照)(注5

(注4) 例えば、「執達吏があくことを知らぬ得意先の御先棒をかついで、その気にいるように働くという弊をなくしなければならない。」、執達吏が「利益の多少、損得という感覚をもって仕事をすることがないように」しなければならないなどの批判がある一方で、「執達吏が過酷であるとか残忍であると言われるが、その弊害は非難されるほど大きなものではない。」「むしろ権利者から見ると、現行制度のもとでは簡易迅速に事務が運営されている。」といった擁護論も見られました。このような議論がきっかけで、一部大都市で「合同役場方式」が導入されるようになったとも指摘されています(前掲書13頁)。

(注5) 日本国憲法の下では官吏制度について根本的改正が行われ「国家公務員法」(昭和22年法律第120号)が制定されました。これによって執行吏は形式的にも国家公務員となりました(これ以前は、「形式上の官吏とは言えず、官吏待遇者あるいは待遇官吏と言われるものであった」(執行官報概説11頁)そうです。)。なお、執行吏を含む裁判所職員は、裁判所職員臨時措置法(昭和26年法律第299号)により、国家公務員法が準用される「特別職」の公務員となりましたが、執行吏は手数料制のため、裁判所職員の中でも特殊な位置付けとなっています。例えば「定員」はありません。

 戦後の執行吏数は、執行官法をめぐる国会での審議の過程で、1955年(昭和30年)328人、その後徐々に増加し1960年(昭和35年)354人、これ以降は減少傾向を示し1965年(昭和40年)330人、1966年(昭和41年)325人であったことが判明します(昭和4167日衆議院法務委員会)
 ただ、執達吏もそうでしたが、執行吏には「代理」が存在したことは忘れられてはなりません(注41966年(昭和41年)の執行吏代理は245人でした。

(注4) 「代理」が存在したということから、執達吏、執行吏の数は「絞られていた」と見ることができそうです。しかも、昭和41年当時の執行吏は、半数以上が60歳以上の高齢者であったそうですから(国会答弁)、同一人が長く執行吏として勤務したこともうかがえます。独自に役場を構え、経営する体制ですから、そうなるのが自然だろうと思います。

 そして、戦後20年を経て、1966年(昭和41年)に執行官法が成立します。1890年(明治23年)以来、77年間、「ほとんどみるべき改善が加えられることなく」(執行官法概説)続いた執達吏、執行吏制度に、初めて改革のメスが入れられることとなったのです。

 執行官制度発足当初の執行官数は約340人と考えられます(執行官ミニ歴史(5)で触れたとおり、初年度は、執行吏325人と執行吏代理17人が執行官になりました。)